「のぼうの城」・・・忍城址(埼玉県行田市)
平成25年7月22日、「のぼうの城」で有名な埼玉県行田市の「忍城」を訪ねてみた。
天正18年(1590)年3月、豊臣秀吉は関東平定のため、そのころ関東を支配していた北条氏の拠点である小田原へ出陣した。忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将、石田三成によって攻められることになった。
6月5日、三成は地形や季節を考えて水攻めを計画し、約1週間で延長28キロにもおよぶ堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れるという大作戦をおこなった。
しかし、城が沈まなかったため、これを見た人々は城が沈まないのは浮くからだと考え、忍城は「浮き城」として、その名を轟かせた。現実には、忍城の地形がまわりよりも少し高かったため、沈まなかったと考えられている。
その後堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わった。
忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続いたが、最終的には開城して7月14日に豊臣軍に引き渡された。
御三階櫓(現在のものは昭和63年(1988)に再建)


城門


鐘楼につるされた鐘は、平成4年(1992)に再造されたもので、本物は郷土博物館に展示されている。


土塀

出土した城の石垣

城のお堀 綺麗に整備されている。

天正18年(1590)年3月、豊臣秀吉は関東平定のため、そのころ関東を支配していた北条氏の拠点である小田原へ出陣した。忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将、石田三成によって攻められることになった。
6月5日、三成は地形や季節を考えて水攻めを計画し、約1週間で延長28キロにもおよぶ堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れるという大作戦をおこなった。
しかし、城が沈まなかったため、これを見た人々は城が沈まないのは浮くからだと考え、忍城は「浮き城」として、その名を轟かせた。現実には、忍城の地形がまわりよりも少し高かったため、沈まなかったと考えられている。
その後堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わった。
忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続いたが、最終的には開城して7月14日に豊臣軍に引き渡された。
御三階櫓(現在のものは昭和63年(1988)に再建)


城門


鐘楼につるされた鐘は、平成4年(1992)に再造されたもので、本物は郷土博物館に展示されている。


土塀

出土した城の石垣

城のお堀 綺麗に整備されている。

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